欠乏こそが恵みである
言葉と私006
2009年12月25日の早朝、僕は日が昇る前に目が覚めました。前々日に友人を亡くし、なんとも言えない気分での目覚めでした。頭では理解しているものの、すべてのものが本当に流れ去っていくものなのだなと、いままで失われていったたくさんの人や物事を思い出していました。するとふとこんな言葉が頭の中をよぎりました。
「欠乏こそが恵みである」
天啓のように思いついた言葉ははじめ意味がよくわかりませんでした。ものすごいリフレーミングだなと最初は感じたのです。しかし、よくよく考えてみると確かにそうかもしれないと思うようになりました。
この宇宙はどのようにしてできたのか、誰にも答えられません。宇宙を生み出した力があるとして、それを「神によって与えられた」とか「それこそが宇宙の作用だ」と言う人がいます。人によってはその力を「Something Great」と呼びます。この宇宙を生み出した力にどんな名前を付けたとしても、与えられた宇宙の成り立ちのとても大切な要素の一つが「欠乏」なんだなと気がついたのです。
生命は生きていくためにエネルギーを必要とします。それを得るために何かを摂食します。多くの生命は食べ終わって満腹になったら喜びますが、本当の天の恵みは満腹にあるのではなく、空腹になることにあるのです。もし空腹を感じないのなら生命はエネルギー不足で死ぬだけです。生命にとって「空腹を感じる」つまり「欠乏を意識できる」というのはありがたいことなのです。だから、もし私たちが満腹になったときに感謝するのならそれは間違っているのです。空腹になって何か食べたい、どうにかしてほしいと思ったときにこそ感謝すべきなのです。
同じように何かしたいと思ったり、夢を持ったりしたとき、僕たちはそれを達成することではじめて神に感謝したり、一緒に働いてくれた人に感謝したりしがちですが、本当は何かしたいと思ったり、夢を持ったり、そのために仲間が集まってくれたりしたときにこそ感謝すべきなのです。その夢がたとえ成就しなかったとしても、その夢を実現するためのイメージを描けたことこそが恵みなのです。
「欠乏」は私たちに苦痛を与えると考えがちです。確かに「満たされてない」状態から「満たされた」状態に変化するために様々な存在は犠牲を払います。その最中では苦痛しか感じないかもしれません。しかし、それが成就した状況を目指しての犠牲であり、欠乏です。それがなければ私たちはそこに留まっているだけかもしれません。
あなたがこのホームページに来て、何かを見つけようとしていることも、きっとあなたのなかの何かの「欠乏」がそうさせているのでしょう。「欠乏」が私たちを引き合わせてくれました。そして、まだ満たされない思いを文章として生み出すためにあなたはきっと苦労するのでしょう。
それでいいのです。
簡単な問いは簡単な解決しかもたらしてくれません。あなたが自分自身に問いかける問いが、難しくて、答えられなくて、どうしようもなければどうしようもないほど、その問いは尊いものなのです。
その問いを与えてくれたあなた自身、そして、神か、宇宙か、Something Greatか、もしかしたらあなたのまわりにいる誰かか、それらの存在に感謝しましょう。素敵な問いを与えてくれましたと。